アンビバレントなクリスチャン

マージナルなエブリデイを謳歌しているらしい。

たとえ虚空をつかむようでも

手ごたえは、なし

受験勉強、商談、研究、教育、恋愛、交渉。 様々な場面で私たちは、「あ、これはだめだ」と感じることがある。

そこにあるはずの期待がないときに、 そう感じるのかもしれない。

信頼して後ろに倒れられるか

そこに宗教はカテゴライズされるだろうか。 ちょっと考えてみると、少し違うような気がする。

「だめだ」ではなく、いまは 「だめだ」 というような気持ちになるからである。

いつかは神様は、自分の声を聞いてくれるかもしれない。 そこに完全な絶望はなく、 どちらかというと期待が横たわっている。

神様は何をお望みか?

聞いてみたい

ちょっと申し訳なさもあるタイトルにしてしまった。 「お望み」という皮肉のような響きの言葉だが、 もし、神様がいるとしたら、どうしてほしいのだろうか。

聞いてみたらいい

じゃあ聞けばいいという話。 旧約聖書では、「神に従え」といわれている。 神とユダヤ人との契約の話が中心になっているこの書物を読んでみればわかるが、 すぐに神に反逆するのユダヤ人。 (手元に聖書がなければアプリをダウンロードしてみてもよいかもhttps://www.bible.com/ja/) 聖書の最初の二つの書簡、創世記、出エジプト記がわかりやすい その度に多くの人が死に、反省するのかと思いきや、また反逆する。

あるときには目の前で敵が神によって滅ぼされたのを見たはずなのに、 やはり反逆してしまう。

じゃあ従えばいいのか

旧約聖書のみが聖典だと考えているユダヤ人にとっては、 神の言う一字一句に従うことが、神のお気に召すことと捉えている。

ある意味そのくらい振り切った姿勢のほうが楽だとも思う。 Dead or Alive, 信じるか信じないかはあなた次第

選択権という名のボールは自分にあって、 それをどこに投げようと自由だ。

愛アンド愛

一方で新約聖書、 すなわち新しい契約に基づく聖書では、 「愛」が中心になっている。

その愛は、きらびやかな愛でもドロドロした愛でもない。

究極の愛、というのかもしれない。 神は自分の子供である「イエス・キリスト」を、 死なせてまで、人を救おうとした。

何で神に子供がいるのかという疑問もあるかもしれないが、 そこは、まあ調べてもらうか、そのうち書くかもしれない。

「跳ね橋」と「列車」と「子供」

神の愛については、こんなたとえがある。

あるところに跳ね橋を上げ下ろしする仕事をしている人がいた。 その人には息子がおり、彼は息子のことを非常に愛していた。

その日も彼はいつものように列車がやってくる時刻になったので、 跳ね橋を下す準備をしていた。 だが、丁度下ろそうかという時に、 息子の姿が見当たらない。

遠くで叫び声がした。 息子は、安全柵を潜り抜け、 跳ね橋が降りてくる、その根元の部分にいた。 潜って遊んでいるうちに体が挟まり、抜けなくなってしまったのだ。

彼方から列車がやってくる音がした。 このままでは、列車は跳ね橋があがったままなので、脱線して大惨事になってしまう。 だが、彼の息子を助けるには、遠すぎる。時間がない。

彼は、跳ね橋をおろし始めた。 いつものように。 とめどなく流れる涙を別として。

愛してくれているらしい

神は、多くの人間を救うために、 愛する我が子を犠牲にした。

それほどの愛であった。

それが聖書の言いたいことだ。

そのままでは罪と共に滅びゆく運命である人を、 神は最愛の子を捨ててまで救おうとした、と。

もらえるものならば

そうか。 愛されているのか。

それはわかるようでわからない。

愛されている実感がわかないからかもしれないが。

それこそ、信じるも信じないもあなた次第、 という言葉が当てはまる。

そして選択権というボールも、やはりこちらにある。

もらえるモノならば、と 手を差し出してみたい気もするのだが。

「人生の拠り所」的な話

もうダメだ、は上がり目か

人生の中で何度か、もうダメだとつぶやいたことがある。 些細なことかもしれないが、その当時の自分は、つらくて仕方がなかった。

だが泣きっ面に蜂という言葉はあるものの、 意外とそのあとに好転するということは良くある話だ。

株価も底まで行けば大体あがる。

一人では生きていけない

世の中には結構な割合で一人でも全然問題ない、という人がいる。 そういう人を見ては、すごいなあと感嘆するが、 自分は一人では生きていけない方だと思う。

依存的になってしまうという話でもないし、 一人で暮らしていて、別にあれができない、これができないという話ではない。

単純に、「孤独」が身に沁みるという話だ。

実は孤独ではない

共感できる人がもしいるならば、おすすめしたいのが聖書というものだ。 物語だとか、歴史書だとかよく言われるが、

実際のところ、 そうだ、自分は一人ではないのだと思い出すようなトリガーのような働きをしてくれる。

無料でも読めるので、 もしない人はダウンロードでもしてみてはいかが。

聖書を読む 携帯、タブレット、PCから無料で使える聖書 | 聖書アプリ | Bible.com

待てど暮らせど

アンバランスな世界

生きているといろいろなことがある。 特に理不尽なことは尽きない。

なんで自分ばかりが貧乏くじを引き続けるのかと悩むことも多いのが、 人生というものだ。

ターンが回ってこない

人生ゲームは一回休みのマスがある。 あの休みというのは人生においてどのくらいの休みなのだろう。

休みというのは魅惑的な響きがあるが、 あのマス目はがっかりな印象を植え付けてくる。

主よ、いつまでですか

祈りの答えは「YES」か「NO」、もしくは「今ではない」 という言葉はよく知られている。

それでも、いつまで待てばいいのかなんてわからないし、 人生は永遠ではない。

興味深い本を見つけた。 冤罪(未判決)で釈放された、元死刑囚の獄中での声だ。 袴田巌獄中からの手紙 「主よ、いつまでですか」を読んで - shiraikeの日記(2019年復活) 袴田巌 - Wikipedia

聖書にも同じように、 苦しむ祈りが描かれている。 主よ、いつまでですか。(イザヤ書6章、ルカの福音書6章) : 新宿シャローム教会 Shinjuku Shalom Church 主よいつまで(詩篇13)

いつまで待てばいいかはわからない。 それは時に鈍痛となり襲いかかってくることもある。

メイソウ

道しるべ

明るいところから暗いところに移動すると、 何も見えないことがある。

一方で暗いところからいきなり明るいところに 移動しても、やはり何も見えない。

浮き沈みの激しい感情の中で生きているとよくあることなのかもしれないが、 迷走して、気づけば誰も幸せにならない選択をしてしまうことがある。

立ち止まる

最近そんなことを感じて、 ひょっとすると自分は鬱なのではないかと思う出来事があった。

たぶんそれとは違うのだろうが、 心の健康は著しく損なわれた。

瞑想してみようと考えたのはそれがきっかけだ。 リラクゼーションの音楽をヘッドフォンで聴き、

目を閉じ、静まる。

祈りになっていたのかはわからないが、 焦る気持ちや不安を一度捨てて、 立ち止まる。

気づくと、少し気持ちは前向きになっていた。

ふっと感じる恐怖と闇

ある意味自称クリスチャン

自分では自分のことをクリスチャンだと思っているし、神様のことも信じている。 ...つもりである。

というのは、信仰熱心なクリスチャンを見ると、 自分はどこまで信じているのだろうか、と考えてしまうからだ。

皮肉に聞こえるかもしれないが、盲目的に信じられるというのは、 とても幸せなことなのかもしれない。

これは本心である。

一度失った信頼感は

いつからか、100%の信じる心はどこかへ行ってしまった。 そのうち、いつかは帰ってくるのかもしれないと思っているのだが。

じゃあ何%なのかといわれると難しい。 だがとにかく、絶対大丈夫だ、といわれても後ろ向きに倒れられないのと同じくらいの 信頼感ではある。

一度失った信頼は帰ってくることが多い。 一度失った信頼感は...まだこれからに期待しよう。

「もしも」の世界

これがリアルであるとはつゆほどにも信じたくない。 だがもしも。 もしも神様がいないのだとしたら。

これまでの自分の信頼がすべて空気をつかむようなものだとしたら。 それはふとした瞬間に感じてしまう。

それはまるで、人生のダークサイドである。

誰しもマスター・ヨーダになることができるのと同時に、 アナキン・スカイウォーカーになる危険性だってあるのだ。

それでも

では信じるのをやめようとは決してならない。 見えなくても、聞こえなくても、感じなくても、答えがなくても、 反応がなくても、何も祈りが聞かれなくても、

自分は信じるのをやめることはないだろう。 死ぬ寸前まで、いや、死んだ後だって、

自分はイエス・キリストを信じるものとして生き続けるだろう。

お前はうそつきだ、それは信仰じゃない、 といわれる時があったとしたって。

一度失った信頼感がどうなるのかは知らないが、 一度得た信仰というのは決してなくなることはない。

聖書で一番不幸なのはヨブではない気がする

ヨブという人

ヨブをご存じだろうか。 彼は敬虔な神を信仰する人であった。

だがなぜか神様が悪魔の「ヨブを試練に合わせたらさすがにしたがうまい」 という話に乗って、ヨブを試練に合わせてしまった。

その結果ヨブは家族を失い、家畜を失い、全財産を失った挙句、病気という病気に侵されてしまう。

友人たちが見舞いに来るも、「自分は神を信じるから…」ということで神様を信仰し続ける。 友人たちはあきれ返り、心にもないことをヨブに浴びせる。

(中略)

結局神様はヨブの姿勢を見て、ヨブを祝福し、 以前の何倍にも失ったものを与え、ヨブは幸せに暮らす。

めでたしめでたし

家族はどうなった?

結論を見出しに書いてしまったが、 不幸なのは家族だ。

ヨブはハッピーエンドで終わったが、 じゃあその家族はどうなってしまったのか。

それは神のみぞ知る世界である。

慈悲深い神様であるから、まさかほったらかしということはないと思うが、 これではあまりにもかわいそうである。

この世界の存在価値

キリスト教では死んだのち、天国や地獄があるということが言われている。 (一部地獄については宗派によって議論もある)

つまりは死んだらゲームオーバーではなく、そこから先がまだあるということだ。

...しかしだからといって、 ヨブの家族のように巻き込み事故を食らってしまっては、あんまりだ。

「いやいや、彼らはもちろん天国で幸せな生活を送れるはずだ」 という意見は当然あるだろう。

でもそうなると、結局この世界はなんなのか。 最悪死んでもOKなんて、ちょっと悲しいなと思った。